共振

彼女のことを初めて知った。

名前を検索して確かめてみたが、私の記憶の中にそれらしき面影はなかった。

彼女は私と同じ高校の一つ下の学年に在籍していたそうだ。同じセーラー服を着て、私たちはあのクリーム色の廊下の上ですれ違ったのだろうか。私が貸出係をしていた図書室に、彼女は本を借りにきただろうか。放送部だったという彼女の声を私は耳にしたことがあっただろうか。

卒業後の私たちはずいぶん違う道を歩いてきたようだ。彼女は被災者として、表現者として、故郷の復興に向き合い続けてきたのだという。そして彼女は今、奪われ傷つけられた故郷を、彼女自身の耐え難い痛みを晒して、文字通り一身で救おうとしている。

一方の私は、故郷があらゆる人たちによって語られ、描かれ、演じられ、それらが繰り返されるのをただ居心地悪く眺めるだけだった。故郷に新しい意味が付与され、生まれ変わっていく。その度に私の中の故郷は遥か遠いものになった。確かに存在した、私が過ごしたあの時間は、空間は、もはやどこにもつながっていない。そんな思いに苛まれて、私は彼女の名前さえ知ることがなかった。

 

それなのに、彼女の告発文を読んだとき、私はふるえた。彼女の痛みが私の身体を捉えて揺さぶるようだった。

それは同じ被災者であることによる共感とか、故郷を踏み躙られたことへの怒りとかそういうものではなくて、もっと密やかでプリミティブな魂のふるえだ。

 

彼女の告発は、彼女の言うとおり何よりも故郷を思ってのあまりに切実な行動なのだろう。だからこの性暴力を、被災者や被災地への冒涜そのものであるかのように言う人がいる。

でも、彼女の名前が「被災者」に置き換えられるとき、本来容易に共有できるはずもないひとりの人の痛みはどこへいくのか。

そして彼女が「被災者」であり続けなければいけないことそれ自体の痛みに、誰が寄り添うことができるのか。

 

あのとき同じセーラー服を着て、一度は廊下ですれ違ったかもしれない私たちは、「被災地」と呼ばれたことのない場所で友人になりえた。

彼女のことを知り、彼女の痛みに触れたとき、私は彼女と同じ場所に立っている気がした。彼女のふるえが地面を伝わり私をふるわせる。その場所は、誰にも奪われることない、私たちのもう一つの故郷のような場所なのではないか。

そしてその場所で、私はこれからもたくさんの人と出会うのだと思う。そのとき私は、ただその人のそばに立って共に魂をふるわせたいと思う。

彼女の痛みが彼女以外の誰にも奪われないことを、私は密やかに祈る。