意識の水面

太宰治の『女生徒』という小説を読んだのは高校生の頃だから、もう遥か昔のことだ。

自慢できることではないが、私は一度読んだことのある本も、見たことのある映画も、ほとんど内容を覚えていられない。よほど強い感銘を受けた、痺れるフレーズやシーンがあった、というのでない限りストーリーなど全く記憶になく、その作品が面白かったかつまらなかったかぐらいの印象しか、私の中には残されていないのだ。

『女生徒』は主人公である思春期の少女が自らのうちに沸き起こる感情を書き連ねた自分語りの短編小説だが、何が書いてあったかは例によってほぼ記憶にない。ただ一つだけ印象的な描写を覚えている。女生徒が、自分が眠りに落ちる瞬間を釣り糸に例える。糸が水の上をゆらゆらと漂っていると釣り針に魚が食いつき、糸は重みで引っ張られたり緩んだりを繰り返す。そして最後には魚の力に引っ張られ水に深く沈むように、私は眠りに落ちていく。

あのうつらうつらと、現実と夢の間を行ったり来たりする感覚を捉えたこの表現に、当時の私はなぜだかとても共感し、一人称語りのはずなのに自分の意識を俯瞰するような視点のおもしろさもあり、私の中に印象的に記憶されることになった。

 

最近、私はこの水面を泳いだ。

 

たいてい私の沈む水の中は苦しい。悲しくて、怖くて、痛くて、救いのない夢を見ている。そこから逃げたいと思うのに体は動かず、助けてほしいのに声帯を震わせることができない。そこで私の意識はびくともしない私の体に抵抗を始める。体の最奥からその表面に向かって、意識が体を突き破ろうとする勢いで運動する。水底から水面に向かって一直線に突き上がるスピード。その意識が感覚を呼び起こす。ゆっくりと確実に感覚を取り戻す私の体は、いつも水から上がった時のように息を切らし、冷えた汗でびっしょりと濡れている。

 

その日見た夢はいつもと違った。永遠に再会することの叶わないはずの人がそこにいた。私はもう二度とその人と離れることがないように、深い水の底に身を沈めようとする。それなのに、体の感覚が、いちばん遠いところからゆっくりと戻ってくるのだ。体の表面から最奥に向かって、感覚が意識を侵食する。いつもとは逆向きの運動が私の中に起きているのがわかる。運動が進むにつれて、その人の像が朧げになっていくのを、意識が必死に拒む。もう二度と離したくないのだ。

私の体はすっかり感覚を取り戻してしまっている。目を開けるのが最後の合図だ。目を開けたら、最後に残されているその人の像は完全に消えてなくなってしまうだろう。だから私は目を閉じたままで、その人のことをじっと見ていた。その時、私は心地よく水面を泳いだのだ。ぷかぷかとたゆたいながら、瞼の裏にあたたかい水を感じる。目を開けたらきっと温かい日が差しているのだと思った。

「またね」とその人に挨拶をして、私は目を開いた。